【おススメの本】『花神』司馬遼太郎~『峠』と対比して読むと面白い!
いやあ、歴史小説なんて「役に立たない」んではないかとずっと思っていて、昨日はそんなことを記事に書いた森野です。
森野には役に立つかもしれない・・・
けど、みなさんには役に立たない。
みなさんの役に立つかもしれない・・・
けど、森野には役に立たない。
どの情報が、どう役に立つか?なんてのは実際なかなかわからないものです。そんなことを気にせず書けるのが、ブログのよいところでもあるので、今日は森野は好きなように書いていきます。
で、今日はご紹介するのは・・・
司馬遼太郎の「花神」。
えーー、司馬遼太郎・・・
古っ!!!
・・・
・・・・
はい、古いです。
だって初版が1972年ですから。
僕が生まれる前ですから。
みなさん、司馬遼太郎なんて・・・何が面白いのか?と思う方もいるかもしれない。
そんなの今の人が読んで面白いのか?ということなんですが・・・
森野は面白かった。。。
ということで、今日はこの「花神」のどこがそんなに面白かったのか、僕なりに分析してみました。読んでくださる方はどうぞお付き合いください。
主人公は「大村益次郎」・・・誰それ?ってなりますよね。
この本の主人公は、
大村益次郎
(本書では、大村を名乗る前の村田蔵六でほぼ統一)。
誰それ?ってなるかと思うんだけど、明治維新の際に日本の近代兵制を整えた創始者と言われている日本史上ではかなりの重要人物。
この本読むまで、僕はほぼ知らなかったけど。
(かろうじて日本史の教科書で少し名前が出てきたような・・・ぐらい。)
明治維新というと、どうしても坂本龍馬とか西郷隆盛に焦点があたりがちだけど、こういう「重要だけどマイナーな人」に焦点をあてるのが司馬遼太郎っぽい。
そもそも坂本龍馬だって、司馬の「竜馬がゆく」が日本で大ヒットしそれで広く知られたということを考えると、司馬はこういう日の当たらない人物に光を当てるのがとっても上手な作家だといえる。
で、大村益次郎である。
出自が面白い。
長州藩(今の山口県)の出身。元々は、町医者の倅である。武士でもなんでもない。どちらかというと農の出だ。その大村(村田蔵六)が医学の勉強のために、大阪の適塾という当時日本でも最大級の塾である学問を学んだことから、歴史の動乱に巻き込まれていく。
医者から日本の軍備を担う兵学者へと変貌を遂げていく。
村田は何を学んだのか・・・
蘭学である。
あ、オランダ語ですね。
面白いのは、蘭学は当時まだ鎖国下の江戸末期の中では全然メジャー学問ではなかったということ。
メジャーなのはあくまで儒教からきている朱子学など。ヨーロッパの学問は異端なわけです。
村田は、後に父の跡を継いで医者になるためにその蘭学を必死で学ぶのだが、その蘭学が時代を経る中でどんどん重要視されていくんです。それは、幕府や諸藩が医学ということでなくヨーロッパの近代軍制を整えるために目を付ける、ということなんだけど、その中で蘭学に通じる村田が歴史の表舞台に上がってくるのである。
この「時代の要請」というキーワードで、
翻弄される村田の人生が壮絶で面白いのだ。
今もそうだと思いませんか?
例えば「IT」というのはここ半世紀の単位で見たときのビッグワードだと思う。「IT」とか「WEB」とか、インターネットの可能性にいち早く注目し、アクションを起こした起業家がサクセスストーリーの源泉に今はなっていますよね。「IT」を使いこなす人というのが「今の時代の要請」に合っているわけで、当時、江戸末期はそれがたまたま蘭学だったというわけなんです。
司馬遼太郎の小説にしては珍しく「恋愛」が重視されている
この村田蔵六って人は、とにかく合理主義者として小説の中では描かれている。
「武士」という建前と名誉が非常に重視されていた社会の中で、そもそも武士階級の出身ではない村田は持ち前の合理主義的な考えから、江戸の武士たちの戦い方や慣習をことごとく否定する。
そんな一見すると人間的には面白くもなんともない村田に、大きな彩りを添えているのが「恋愛」。
シーボルト事件でも有名なあのシーボルトの娘・イネとの恋仲のストーリーだ。
司馬遼太郎の小説では、ここまで恋愛を描いたものはないのではなかろうか。
そりゃ「竜馬がゆく」でも「風神の門」とかでも多少主人公と恋仲に落ちる女というのは出てくる。ただ、それはストーリーのための「味付け」的要素であった。ただ今回の「花神」では、村田とイネの恋のストーリーは、物語全般にちょこちょこと出てきてそれが村田自身の生き方と大きく関わっている。
ともすると、合理主義で冷徹な朴念仁の印象を与える村田蔵六というキャラクターに、イネという西洋人と日本人のハーフの女性との恋話を添えるというのが・・・
面白い。
この本を読むと、明治維新の動きがよくわかる
そんな村田蔵六が生まれた幕末から彼が死ぬ明治の初期まで。この小説は、村田の一代記を壮大に綴っているので、自然と明治維新の動きがよくわかる。という作りになっている。
いや、別に明治維新なんて興味ないよ、
と思う人には響かないと思うけど、僕は日本の歴史のことを知ることは大事なことだと思っているので、今回この本を読んで改めて明治維新のことがわかったのはとてもよかった。
といっても、村田蔵六は長州藩の人なので、明治維新の中心となった薩長の「長」側からの視点がどうしても多くなるけど。
これまでただ過激な印象しか持てず一種狂信的な趣すらあった長州藩に対して、なぜ、長州はそう動かざるを得なかったのか?そこらあたりの実情がよくわかって非常にタメになった。
本書で司馬のこんなくだりがある。
幕末の攘夷熱は、それが思想として固陋なものであっても、しかしながら旧秩序をやきつくしてしまうための大エネルギーは、この攘夷熱をのぞいては存在しなかった。福沢(諭吉)は蔵六や長州人の「攘夷熱」を嗤ったが、しかし、これがもし当時の日本に存在しなかったならば武家階級の消滅はきわめて困難で、明治開明社会もできあがらず、従って福沢の慶応義塾もあのような形にはあらわれ出て来なかったことになる。
出典:「花神」 司馬遼太郎 より
司馬遼太郎の歴史観は「司馬史観」などと揶揄されがちだが、まあそうはいっても大まかな史実のところでは間違いはない。
明治維新を成し遂げるには西郷隆盛や大久保利通の薩摩藩だけの力だけではならなかったということだ。やはり、一種狂信的なまでになっていった長州藩の「攘夷熱」が、エンジンを回す「ガソリン」のような役割を果たし、日本を動かしていったということを意識させられる。
「世に棲む日日」とセットで読むと、もっとよくわかる
この明治維新に大きな役割を果たした長州藩。
実はもう1冊、この幕末期の長州藩を扱った司馬の小説がある。
「世に棲む日日」。
こちらの主人公は、松下村塾で高杉晋作や伊藤博文などを育てた吉田松陰とその弟子・高杉晋作の二人。
まだ鳥羽伏見の戦いよりだいぶ前、江戸末期にペリーの黒船が来航し、諸外国に対して「攘夷」の熱が高まっていった時代に長州藩の兵学師範だった吉田松陰が、それを思想としてどう高めていったか、そして松下村塾でその思想を語らった弟子たちがどのような活躍をしていったか、について詳細に書かれている。
この「世に棲む日日」を前編、「花神」を後編として読むと、長州藩が明治維新の火種をつけてから完了させるまでどういう役割を果たしてきたかよくわかる。
本書の文庫版の解説にこうある。
既にふれたように、「花神」は「世に棲む日日」と一対をなす長編小説である。一作だけ切り離しても、十分に面白さを味わうことはできるが、本編の読者に是非とも吉田松陰、高杉晋作の師弟を主人公にした姉妹編を併せ読むよう、おすすめしたい。
「ぼくは忠義をするつもり。諸友は功業をなすつもり」。松陰のあまりにも有名なことばである。革命精神に殉じた彼の高潔な生涯が起爆剤となって長州藩は立ち上がり、「花神」で描かれた革命成就の決定的段階を迎えるのだ。
出典:「花神」司馬遼太郎 解説 より
と、この本の解説でも、このようにセットで読むことをオススメしている。
その理由の一つに、僕は司馬氏が明治維新について示した一つの明確な洞察を引用してみる。
この小説は大変革期というか、革命期というか、そういう時期に登場する「技術」とはどういう意味があるかということが、主題のようなものである。大革命というのは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。日本では吉田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。三番目に登場するのが、技術者である。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい。
出典:「花神」 司馬遼太郎 より
ということなのである。
司馬氏の言葉を借りるなら、「世に棲む日日」の吉田松陰は革命の第一段階、次の高杉晋作が第2段階、そして「花神」の大村益次郎が最終段階、ということになり、これら二つの小説を読むことで革命の初期から最後まで見届けることができるのだ。
とはいえ、こんな人には読むのには向かないかも・・・
というわけで歴史が好きな人で、もしこの小説を読んでない人であれば、オススメの一冊となるわけだけど、そうはいっても読むのに向かない人もいる。
まずこの小説は・・・
上・中・下巻と3冊からなっている。
なので長い!!
クライマックス、村田蔵六が大村益次郎と名乗り、幕府軍を相手に活躍するのは下巻から。せっかちな人はちょっとそこまで我慢できないかも。
そしてところどころ寄り道もする。
司馬氏の小説はときどき「脱線するが・・・」と前置きがあって、司馬氏個人の見解や小説を書くのにあたって取材したことなどが挿入されてくる。
ある種この本を読んでいるときは司馬氏の呼吸に合わせてお付き合いしていかないとならない。
そういう受動的な読み方が無理な人には難しいかもしれない。
終わりに
池波正太郎や藤沢周平のような、架空の人物を主題にした歴史小説家もいる。
だけど司馬遼太郎の小説の多くは、実在の人物を扱っている。
実在の人物を扱いながら、大まかな歴史的事実には即しているフィクション。これが司馬氏の小説の特徴でもあり魅力の一つだ。
やっぱり実在の人物が主人公だと、それが真実かどうかはさておいて「ああ、この人はこういう風にものを考えていたのか」とか「こういう風に行動したのか」とかいうのがリアルに思えてきますもんね。
で、今回は、ある種”地味”ともいえる大村益次郎の生涯をおった一代記。
そんな小説になぜ「花神」という華やかなタイトルがついたのだろうか?
森野はそこが心にひっかかりながら読んでいたが・・・
司馬氏は、
最後このタイトルの意味をちゃんと解説してくれている。
タイトルを回収してくれてる。
その意味を知り、森野は思わず「ほーー」となった。
読まれた方が、「ほーー」「はーーー」「へーー」となるか、
はたまた「???」となるかはみなさん次第。
そんな「花神」いかがでしょうか?
今日はこの辺でおしまい。