やわらかーく考えよう 猫でもわかる「反知性主義」
物の考え方って基本になるがゆえに
とっても大事な気がする。
たとえば・・・
ある商品開発の打ち合わせで
●みんなが何の意見も言えないぐらいの
100%完璧な資料を作って、
自分の意見を押し通す
●資料は50%だけど、
みんなからいろんな意見が出てくうちに、
思わぬ卓見が出て、
商品が思いもよらない飛躍を遂げる
あなたならどちらがいいと思いますか?
僕は以前は前者のほうが優れていると
思ったいたのだけど
最近は、意外と、
後者のほうがよいのでは?
と感じている。
そこで、内田樹さんのこの本である。
内田さん、ご存じですか?
内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本の哲学研究者、コラムニスト、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。京都精華大学人文学部客員教授。合気道凱風館館長。
東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。学位は修士(東京都立大学・1980年)。合気道七段、居合道三段、杖道三段[1]。
専門はフランス現代思想だが[2]、取り上げるテーマはユダヤ人問題から映画論、武道論まで幅広い。
出典:wikipedhiaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9
何年か前に「日本辺境論」が新書大賞になりましたね。
AERAの冒頭のコラムを書かれていたり、
ほかにも「街場」シリーズなど、
内田さんならではの視点から語られる切れ味鋭い批評が好きです。
で、その内田さんがその見識を高く評価している
識者に寄稿を依頼して生まれたのが本書。
僕はこの本を読んで、
「反知性主義」という言葉の意味を知ったこと以外にも、
知性というのは結構日常で深く関わっているんだと、
大事なことを発見したような気がする。
今日はそのことについて考えてみたい。
まず「反知性主義」とは何か?
とその前に、
この本は9人の寄稿者と内田さん本人、
10人の「反知性主義」に対する考え方が記されている。
執筆陣はご覧の方々
内田さんは、こう記しています。
へーー。
アメリカの思想なんですね。
ここで注目したいのは、
「知識人自身がしばしば最悪の
反知性主義者としてふるまう」
というところですね。
知識人が、反知性主義に陥る。
矛盾しているようだけど、
内田さんはそうではないと言います。
反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人びとによって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。」
知識があるからこそ、
反知性主義に陥る危険性がある。
そういえば、
ドイツの哲学者ショーペンハウワーが
「読書について」で
「たくさんの本を読むことは、全然いいことではない」
ということを言っていた記憶があります。
つまり、
中途半端な知識を持つことで、
考え方へのバイアスがかかってしまい、
自由な発想の妨げになるという考え方ですね。
それを裏付けるかのように、
内田さんは反知性主義者たちの特徴を
こんな風に書いています。
こうした閉じてしまった人の考え方を
変えるのは容易ではありません。
例が適切かどうかわかりませんが、
僕はこの件を読んで、
オウム真理教のことを思い出しました。
教団のメンバーの中には、
非常に専門的な知識が豊富で、
高学歴のメンバーもいました。
しかし教団という狭い組織の中で、
マインドコントロールされ、
「閉じて」しまったがゆえに、
彼らは自分たちの行っている行動が、
反社会的なものであることに気づけなかった。
それは非常に恐ろしいことです。
閉じた知識は、役立たずだ!
反知性主義が批判の対象になるのは、
この「ことの理非の判断を私に委ねる気がない」
という点にあると思います。
結論が先にある。
自分の中で理論が作られていて、
そこを変えるつもりは毛頭ない。
これは僕たちの日常の一コマにも
あてはまります。
たとえば、
そんな人が会社の会議でプレゼンしたら
どうなるでしょう?
面倒くさいですね。
何を言っても、
反論されますから。
打ち合わせとかブレストでは、
みんなが多様な意見を出すことで、
思わぬ発見が出てくる。
AさんとCさんの意見の思わぬところが作用して、
まったく新しい考え方が作られる。
これがオープンに議論することの意味だと思います。
内田さんもこう記していますね。
知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思っている。知性は「集合的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。
そうなのです。
いくら一人の中に膨大な知識があり、
それが理論だって説明できたとしても、
それは「知性的な態度」ではないのです。
だから、ある個人が知性的であるかどうかは、その人の個人が私的に所有する知識量や知能指数や演算能力によっては考量できない。そうではなくて、その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。
内田先生ならではの物の言い方ですが、
「彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。」のです。
まとめ
僕も仕事の場で、
いろいろなプロジェクトに参加しています。
そのときに自分の意見は
別に採用されまいが、
採用されようがどっちでもいい。
だけど、この場をもっと活発にする
意見が言えたらいいんだけど・・・
と思っていました。
今回この本を読んで、
計らずともそうした開かれた心の持ちようが、
やはり大事なんだと気付かされました。
クローズドではなく、
オープンに。
知性というのは、
知識の総量とか知識の使い方という一面は
そりゃあるんでしょうけど、
もっと根本的な姿勢そのもの中にあるのでは?
と思った森野でした。
今日はこのへんでおしまい。